英語で講義をするのは悪手だろう

東大大学院の工学系研究科が授業の英語化を進めているらしい。

この決定に至った背景に関する信頼できる資料は見つからなかったし、あったとしても表面的に取り繕った綺麗事しか書かれていないのは想像に難くないので、判断を下した主体やその根拠に関してなんらかの評価を下すつもりはない。しかし、大学教育を英語化するという施策そのものは、知識を学ぶことの効率や精度といった面でかなり大きなデメリットを抱えていると思う。


根本的な問題は、そもそも大学教員の英語スピーキング力が総じて低いという問題点だ。自分の経験では、流暢に英語で講義できる日本の大学教員はほとんどいない。これは東工大の情報系学科に在籍していた上での印象なので、東大大学院の状況とまったく同じとは言えないまでも、概ね同じだと思っていいだろう。

大学教員に限った話ではないが、日本人の喋る英語は下手で長時間聞くに堪えないことが多い。下手というのはよく言われるrとlの発音とかいう細かい話ではなく、人に聞かせるスピーチとしての発声が下手という意味だ。具体的な問題として感じるのは以下のような点がある。

  • 単語の途中で詰まって止まり、思い出したら文全体を言い直すでもなく、止まったところから再開する。
  • 定型構文の途中で詰まって止まり、長い間を開けてから続きを話すので文の最初に何を言っていたのか分からなくなる。
  • 言葉に詰まったとき、言葉を探しているというアピールをせずに完全に押し黙って考え込んでしまうため、話の空気が完全にぶった切られる。
  • 名詞や形容詞だけ長々と喋ったあと、動詞を言い忘れて文が終わる。

総じて「英語を喋っていて詰まったら流れを無視して長考に入り、聞いてる側に無用な緊張を強いる」とか「聞き手の負担を考えず、単語を並べるだけでいっぱいいっぱいになっている」という傾向がある。こんな英語で知識を伝達しようとされても無意味に疲れるだけだ。しかもそれで日本語と同等の情報量があればまだいいが、大体は語彙や表現力が足りないので大幅に細部のニュアンスが削り落とされた、スカスカの発話になっている。


もちろん現代において、特に理数系の研究をする上で英語が重要であることは論を待たない。もっとも影響力の強い論文は必ず英語で書かれているし、外国の研究者とコミュニケーションを取るために使う言語も英語だ。それほど科学は英語を中心に回っているが、それは決して科学そのものが一から十まで英語で行われる必要がある、ということを意味しない。

自分自身の思考は、英語が必要でない端的な例だろう。外国語をそれなりに勉強した人なら感じていると思うが、母語以外の言語で思考するのはとても難しい。特に複雑な思考をする場合、大抵の人は自然に母語を使って考えるだろう。複雑な思考とは、例えば数学の定理のように高度な論理的推論が必要なものや、法解釈のように文化、倫理規範に基づく細かいニュアンスの表現が必要なものなどがある。こういった思考を外国語で展開しようとすると語彙が足りなくてそもそも無理か、できたとしても思考への負担がかなり大きくなる。自分の思考がもっとも貴重で価値のあるリソースなのだから、わざわざ不自由な外国語を使って考える必要はない。

自分自身の思考に母語を使うのであれば、入出力も母語で行うのが自然だろう。その意味で、日本語話者とわざわざ英語を介してコミュニケーションを取る必要はない。大学での講義はまさに、教員が思考を学生に伝達し、学生は教員から受け取った思考を内面化するという行いなのだから、教員の発話は可能な限りその思考を精緻に再現した母語による発話であることが望ましい。

一つ注意が必要なのは、英語から語彙を借用することと、思考に日本語を使うということは矛盾せずに両立するということだ。理系、特にコンピュータ科学では顕著だが、英語の単語をそのままカタカナで音写して日本語の語彙であるかのように扱う、ということは非常に広く行われている。卑近な例としては「プログラム」とか「キーボード」といった単語に一般的な日本語訳は存在しないが、これらのカタカナ語は自然に日本語の中に混ぜて使われる。耳慣れない言葉でこれをやるとともすれば「ルー語」などと揶揄されることがあるが、基本的には最も使い慣れた日本語で思考を表現し、どうしても英語でないと表現できない部分だけ借用するという選択は大変理にかなっている。たとえば「Hyper parameterの選択に失敗してoverfittingしている」のような表現は、機械学習をしていれば普通に使うだろう。

現代において価値のある文献は英語で書かれており、英語を使わない発信に世界への影響力はない。そのような厳然とした事実は存在する。外国の研究者とコミュニケーションをするために英語が必要ならば、教育機関としてはその目的に特化したカリキュラムを作り、研究者を教育するべきだろう。それは通常の講義と同じく、英語によるコミュニケーションの専門家が知見を伝達することでなされるものだ。下手クソ同士で英語を使って授業をしたところで何も得るものはない。


日本語で教わったことと英語で学んだことを統合し、自分の知識とすることには無視できないコストがかかる。単語の対訳を覚えなければいけないし、文献の読み方、書き方、スピーチの話し方、どれも日本語とは別に英語に合わせた形で勉強する必要がある。しかし、教員と学生のどちらも不慣れな英語を使い、思考リソースを奪われ、しかも細かいニュアンスが欠落したスカスカの情報を時間をかけて得るくらいなら、日本語話者が日本語で表現した高品質な情報を得てから、時間をかけて消化する方が良いに決まっている。幸いにして日本語には、論理的推論や客観的な観測・議論など、科学的な手続きを十分に表現できるだけの語彙が整っているのだから。